このブログは福田文庫の読書と創作と喫茶と煙草……その他諸々に満ちた仮初の輝かしい毎日を書きなぐったブログであります。一つ、お手柔らかにお願い致します……
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× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 お蔭様で第8回「ミステリーズ! 新人賞」の一次選考を通過することが出来ましたので、構想を飲みの席で話したら罵倒してくれた友人たちにこの場を使い報告してみる……というのは建前で、タイムリーに更新したらたまには知らない人も来るかなと期待しただけだったりもする。
今回のネタはQさんといる時に、もしこんな状況だったらどんな真相があり得るだろうかという何気ない会話を元に思いついた話だったのだが、日常派の良さはここら辺にあると思う。前に送ってやっぱり二次で落選した二作も、死ぬほど暇な店舗の応援に行ったとき目の前にある煙草の自動販売機を見てて、「煙草を買うふりしてるやつがいたら面白いな」と仕事そっちのけで考えたり、前に住んでいた家の近くにある学習塾の窓を見てて、「あの形状はミステリ向きの窓だな」と思っていたのがきっかけだったりした。
普段生活していて、これってどういうことだろうと思うことは多いが、こうやって殺せばアリバイが成立するなと思う機会は少ない。何で急にこんなことを書き出したかと言えば、とある作品のレビューを読んだ時に、謎解きの謎が日常風景だとリアリティがあっても面白みがないという趣旨のものを読んだからだ。
ミステリが好きな人間で、しかも自分でもいっちょ書いてやるかと思う人間は、大体の場合は密室から書くのではないかと思う。そして大概は新しいトリックを思いついたと意気込み、そして大半は既存のトリックであることを知り気落ちするのだ。自分も初めてちゃんと書いたつもりのミステリは密室だった。やっぱり新しいトリックだと息巻いて、はるか昔に書かれていることを知りひどく落胆した。
このように、ミステリのトリックは大体の場合は既に書かれているケースが多い。それでも尚、未踏のトリックを求めて歩き続けるか、組み合わせで新たなるパターンを創出するか、それは人それぞれだが、自分の場合は日常派に逸れていった気がする。書くのもそうだが、読むものの好みも逸れた気がする。別に密室が嫌いになったのではなく、好みが変わったのだ。
日常派と呼ばれるミステリの定義は様々であるだろうが、大雑把に言えば人の死なないミステリである。これは相当に適当で断定するものではない。
日常のふとした出来事の不可思議さに謎を見出し、それを解決する。全ての情報がフェアに謎解きをするために巧妙に配置され、時として人間が描けていないという決まりきったバッシングを受ける運命にある本格ミステリとは一線を画するミステリジャンルが日常派であると私は思う。無論、日常派にもメリットデメリットは存在する。
メリットとしては、先に挙げたように基本的には人が死なない。ちょっとした謎に解決を求めるので、推理に柔軟性が生まれるのだ。大半のミステリは現実の日本を舞台にしているので、人が殺された以上(もしくはそれに準じた犯罪行為)は、警察が捜査をする。クローズドサークルというものもあるが、あれも基本的にはいつか捜査の手が及ぶことを前提に犯罪が行われる。つまり、そこにはアリバイや指紋なんかが存在する。制約は厳しいのだ。だからこそ、論理的に謎解きをする舞台や条件が整うのだが、その一方で先に挙げたように既出したものが大半で、トリックの枯渇という問題にも直面する。
だが、日常派では基本的に制約が厳しくないのだ。高校のクラスで何かが盗まれたとか事件が起きても指紋を調べたり、厳しくアリバイを調べるということはないのだ。この柔軟さが推理する範囲に幅を持たせるのだ。まぁもっともデメリットもある。それは柔軟すぎて、もう机上の空論までいってしまう作品もあるということだ。警察といった絶対権力が介入したり、法律に照らし合わせたりしない以上、日常派における推理とは断言ではなく、こういう考え方が一番しっくり来るとか、あるいはこの考え方が一番無理がないというものが多いのだ。犯人を推理しても、逮捕したり出来ない事件も多く、また逮捕しないのでそもそも答え合わせがないものも多い。その結果として、言ったもん勝ちのような結論だったり、説得力を主人公が推理したという権威的なものに頼る作品も残念ながらある。
話が日常派の説明になってしまったが、話題を戻すと、日常の謎にリアリティがあっても面白みがないという意見は、ゴジラという映画は怪獣が大暴れして面白いが、リアリティがないといっているのと同義だということだ。根幹を否定してはいけない。ゴジラを観る人は別に、巨大怪獣が日本に上陸したら日本政府がいかなる対応を取るのかというシミュレーションを見たいのではない。同じく、日常派を読む人間は、そこで扱われる謎に日常風景を感じたからといって、つまらないとは思わない。むしろ、その視点や日常から不可思議を拾い上げるセンスを楽しむと言っても良いだろう。無論、日ごろ生活していて不思議に思うことがあったとして、それを論じて結論を出すという行為自体がフィクションなので、個人的には日常派ミステリもいい意味で十分にリアリティはないと思うが。 PR このアンソロジーは推理作家の若竹七海女史が、大学時代に書店でアルバイトしていた時に経験した不可思議な出来事の顛末を推理するというもので、一般公募がなされたものなのですが、その当時は私も全然小説なんて書いてなかったので挑戦することが出来ませんでした。というか、ミステリに関して不勉強な私は上記した単行本を読むまでちいともこんな募集があったことも知りませんでした…… このアンソロジーを読んだ時に自分なりに色々と考えた結果、今回書いたような顛末が思いついたのですが、その時は我ながら余り良い出来ではないと思い、自意識過剰な私もそれを敢えて拙文にして世間様に晒そうとまでは思い至らなかったのですが、最近になってある方とこの本の話になった時、 「いやぁ、俺も実はこんなオチを考えたんですけどね(ニヤリ)」 と、いつもの悪い癖で得意満面に自分の考えた話をつらつら並べた訳です。すると、意外にも相手には高評価を頂きました。日頃、お世辞やお愛想を嫌うところのある自分ですが、こと小説のことになるとそういったポリシーをかなぐり捨てて飛びつくというところがあり、そうした流れから今回、十年前のアンソロジーに今更噛み付いたという次第であります。 作中にカエルヤ珈琲店と昭平堂という喫茶店が登場しますが、これは前者は本当に北海道立近代美術館の近くにあるお店で、後者は喫茶店ではなく旭川にある自家焙煎の珈琲屋さんであります。 カエルヤ珈琲店はカエルをモチーフにした喫茶店で、店中にカエルのグッズやカエルをデフォルメした絵画なんかが飾ってあります。コーヒーの味もしっかりしているし、店構えやメニューも喫茶店としての魅力が高い一軒です。昭平堂さんはたまにイオンの中でコーヒー豆の販売をされている時に利用させて頂いているのですが、ここのマンデリンは私が今まで飲んできた中で一番美味しいです。札幌に店でも構えてくれればいいのにという思いを込めて今回勝手に名前を使わせて頂いたことをこの場を借りてお詫びします。
とは言え、自分自身が四年もの間、人知れず、それも顧問となっていたG教授も自分が顧問であることさえ知らないままに運営されていた我がミステリ同好会の会則は実践を重んじることであったので、ここに恥ずかしながら晒す。 今回晒す長文は第6回「ミステリーズ! 新人賞」の一次選考通過作品に一応は選ばれたものである。確か450作品ほどの応募で31作品通過だったように記憶している。なぜそんな数字を覚えているかと言えば、口ばかり達者で実際の経歴に一次選考通過以上のものが無いという実績故の見栄もさることながら、 「あーきっと俺のは31作品の31作品目で補欠みたいなもんなんだろうなぁ」 と、30作品というきりの良い数字じゃないことに変な自虐を覚えながら、創元推理社様からのメールを眺めていたからである。 このブログでも二回ほど晒している「飯亭論議」の登場人物が気に入ったし、自分の経験で半分くらいリサイクルしている設定のためか、私の最も悪癖と知人からこっぴどく注意を受けている蛇足にも程があるラブコメ要素が全く入れられないのも良かったので、この設定で応募した記憶がある。 私の描くラブコメ要素の最悪な理由は数多くあるが、最も多くの人間に指摘されたものにヒロインが主人公にベタ惚れと主人公とヒロインのやりとりが気持ち悪いというものがある。 本人が書いている時は勿論そう言った自覚はなく、むしろ、 「こいつらはラブコメを素直に読む純粋さを失ったのだ。哀れなる子羊どもめ」 と鼻で笑っていたものだが、今になって読み返すと鼻で笑える。自分の長文が。 まぁもう二度とああいう手のものは書かないだろうが、自戒の意味を込めてその一部を紹介すると、ヒロインと主人公が喧嘩したあと、公道でプロレスごっこして仲直りとか露天風呂の石垣越しに会話をする等……今こうして説明するだけでも指の腐る気持ちである。一見、文章でのみ簡素に説明するとそんなに厳しくは感じないだろうが、これを私の屈折したラブコメ観というフィルターを通すと、例え肉親でも反吐が出るほど気持ち悪い代物に仕上がるのだ。恐ろしい限りである。 前置きが随分と長引いたのは、長文の稚拙さを誤魔化す心理の作用した結果かもしれないが、少なくとも上記のような気持ち悪い表現はないので御安心して目を通して頂ければ幸いである。 ブログに記載するには少々文章が長いので、下のページにて記載しています↓ 夏であり、祭の季節である。
週末ともなれば、この北の地にも花火の轟音が河川敷から鳴り響く季節がやってきた訳である。個人的には似合いもしない浴衣に袖を通し、明らかに営業届けを出していないオッサンの売り歩く法外な価格設定の缶ビールを呷りながら、花火見物という名目の乳繰り合いに興じる相手もいないので、単に麻痺した交通機関の犠牲となって地下鉄を三本も乗り損ねたに過ぎないのであるが、高校三年の夏の祭の思い出を拙文におこしてみた。例によって半分ノンフィクションのため、面白みという点では非常に心許ないが、ブログという性質を考えた時、元より自己満足の塊のようなものなのだから、時たま晒す拙文がミステリとして完成度が高いか低いかなど、些細な問題に過ぎないと開き直っての更新である。 半分と言ってみたが、考えてみると八割がたノンフィクションであった。さすがにこの程度の一発ネタを会報に載せるには至らなかったが、高校時代の自分は間違いなく見栄っ張りな上に何かを期待したヒラの生徒会執行部員であった。どれくらい何かを期待していたかと言えば、放課後に一人で屋上に佇み、グラウンドでランニングに悲鳴を上げる運動部員を見下ろしながら見下していたという最低な行動に及んでいた。
「せ~んぱい!」
「……お子様はもうとっくに帰宅する時間だぞ?」
「ひど~い! せっかくお迎えに来て上げた後輩に言う台詞ですかぁ?」
「……ふん。迎えなんて、頼んだ覚えはないぞ。本当に早く帰れ。最近は物騒だからな」
「心配してくれるんですね?」
「……社交辞令だよ。誰にでも親切なのが俺の美点だからな」
「だったら家まで一緒に帰りましょうよ? もうすっかり暗いですし」
「……夜道で泣くほどお子様ではないだろう?」
「物騒な夜道をか弱い女の子ひとりで帰らせるつもりですか? 親切なせんぱい?」
「……ふん。帰れば良いんだろ? ほら、行くぞ」
みたいな展開をにわかに期待していた自分が今となっては恐ろしい。大体、後輩なんて苗字さえ知らないのに、迎えに来る訳がない。そんな当たり前のことすらスルーして屋上の扉を用務員さんに施錠され、仕方なく非常階段から帰宅したことが本当にある。大変に気持ち悪い思い出は腐るほどあるが、今回はその中でも割合ソフトなものをチョイスしたつもりであるが、痛々しいことには変わりない。
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HN:
福田 文庫(フクダ ブンコ)
年齢:
41
性別:
非公開
誕生日:
1984/06/25
職業:
契約社員
趣味:
コーヒー生豆を炒る
自己紹介:
24歳、独身。人形のゴジラと二人暮し。契約社員で素人作家。どうしてもっと人の心を動かすものを俺は書けないんだろう。いつも悩んでいる……ただの筋少ファン。
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