私はグーグルを日ごろ利用している訳ですが、このサイトで「名探偵」と入れて画像検索をかけると、コナンがたくさん出てきた。
コナンと言ってもコナン・ドイルではない。永遠の小学生の方である。あのアニメが始まった時はまだ惰性で単行本を買うなり読むなりしていた様な気もするが、今はもうまるで読むことがなくなった。個人的には自分の過去の作品から、然して人気があった訳でもないキャラクターを登場させてきた辺りで、もうご馳走様という感じだったが、その内に刃でも出てくるのかしらん。
それはさておき、
名探偵と言って、誰を最初にあげるかは人それぞれであろう。
個人的には御手洗潔である。好きなのは火村先生であるが、火村先生は名探偵という訳ではない気がする。ドラマに話を広げれば、濱マイクも工藤俊作も好きだ。そんな私は今、チェリーを吸い、工藤ちゃんが愛した組み合わせのブレンドで淹れたコーヒーを啜っている訳だが、両者とも名探偵ではない。
大学時代の友人とは今でも話をするし、時間さえ合えば会って論議を交わすこともある。文学部の落ちこぼれがやいのやいのと騒ぐネタなど小説くらいのもので、ここが文学ではなく、あくまでも小説であるのは落ちこぼれの証と自負する。
あの頃、親しくした友人は数えるほどしかいないが、小説絡みとなれば更に人数は絞られて三人程度のものになる。
この内、二人は共に作品を書き上げた実践的な人間で、残る一人が評論のみの男であった。この評論家気取りの友人が曲者で、よく私たちの落書きに毛が生えたような駄作を本気で否定してかかる。
無論、こうした扱いを受けることは光栄なことなのだが、私以外の二人はあまり快くは思わない節がある。私も今はこうして冷静に書いてはいるが、いざ自分の拙作が話のネタに上がれば、頭では分かっていてもつい自己擁護的な言葉が口をついて出ることがある。
そんな友人に下読みをよくさせる私だが、つい最近に某新人賞に送った作品を読んで貰った時にこんな感想を頂いた。曰く、
「もう斜に構えた名探偵は見たくない」
といった内容のものだ。
別に名探偵は斜に構えなくてはいけないという道徳も法律もない。謙虚な探偵も寡黙な探偵もミステリ界では活躍しているだろう。だが、私はこの意見は受け入れることをしなかった。私はこう思うのだ。
「俺はエヴァみたいな名探偵は書きたくない」
別にガンダムでも良い。平成ライダーでも良い。つまりはそういうことだ。
水戸黄門というドラマがある。あのドラマを見ている人間の中に、果たして水戸黄門一行のピンチに本気で手に汗握れる者が一人でもいるだろうか?
水戸黄門は死なない。イギリスのスパイと地獄の皇太子は二回死ぬみたいだが、ヒーローというものは基本的に死なないのだ。あと強い。機関銃とか撃たれても絶対に当たらないし、崖から落ちるのは我々一般人で言うところの足がつる程度の危機でしかない。
かつて、ロボットものの主人公たちは割合抵抗なくロボットに乗った。現代の感覚を持って当時の作品を見てみると、みんなノリノリで乗っているようにさえ見える。多少嫌がる人間も、目の前で敵が街とかドカーンってやれば、「畜生! ゆるさねぇ」
とか言って、すぐに出撃したもんだ。
いつからだろう? 主人公がロボットに乗ることを躊躇い、改造人間が人間としての弱みを吐露するようになったのは。人はそれをリアリティと呼ぶかもしれないが、個人的にはいらないと思う。
日本の探偵小説の主人公たちがあたかもヒーローのように振舞ったことに、現代においてもまだ探偵小説が読み物として一段低く見られている要因が多少なりともある訳であるが、こうした探偵小説を含めたヒーローものにリアリティを入れるという試みは、あくまでも単純なアンチである。
あるひとつのやり方が持て囃されれば、必ずその裏側でもう一儲け出来る。だが、裏はあくまでも裏であると私は思う。優劣はない。ただ、表が最初にあって、裏があるのだ。だからといって、次点の裏が必ずしも表よりも優れた内容であるとは限らない。せいぜい、あるのは目新しさに過ぎない。それさえも、表が十分に知れ渡ったからこその新鮮さである。
なぜ、人は安い鮮度に喜ぶのか? これだけさまざまなものが模索される現代において、完全な「新」はないだろう。だとすれば、形式的な枠組みの中で描かれる作品を楽しもうという気持ちを持てば良い。私は少なくともそう思うし、今もまた書き続けている駄作の中で活躍するのは、斜に構えた名探偵だ。
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