
題名/『ボトルネック』
著者名/米澤 穂信
出版社/新潮社
個人的評価/30点
内容/
亡くなった恋人を追悼するため東尋坊を訪れていたぼくは、何かに誘われるように断崖から墜落した…はずだった。ところが気がつくと見慣れた金沢の街にいる。不可解な思いで自宅へ戻ったぼくを迎えたのは、見知らぬ「姉」。もしやここでは、ぼくは「生まれなかった」人間なのか。世界のすべてと折り合えず、自分に対して臆病。そんな「若さ」の影を描き切る、青春ミステリの金字塔。
要約/
青春ミステリの看板に偽りあり。これは訓話ホラーに過ぎない。
こんな日記の片隅に書いたポエム程度の苦々しさで青春や若さの苦味を語られて賛同している方々は恐らく幸せな半生を送られてきたに違いない。
◎
もう早いもので十二月。世間様は不景気だなんだと言いながらも、お歳暮だのおせちだのと散財することに躍起であるが、貧乏人でミステリ好きの私にしてみればこの季節は「このミス」を買うというイベントを置いて他にないというのは少々過言だが、そんな季節である。
いつかサークルの部室に並べようと思ってバックナンバーを買い漁っていた時期も今は昔で、厳しい会則の下に運営した我がサークルは既に存在しない。結局バックナンバーは我が家の本棚にひっそりと所蔵されることと相成った訳だが、七割ほど集めた手前、今年だけ買わないのも何だか気が引けるなどと毎年言っては、ちっこい本棚の収納スペースを着実に占領している。
洋書の苦手な不良ミステリ好きとしてはランキングは国内編にしか興味がないのだが、さらに困ったことに新刊を買う習慣のない私が実感をもって順位に一喜一憂出来る本は本当に少ない。
そんな中でも珍しく購入した今年の新刊の一冊である米澤穂信氏の『秋季限定栗きんとん事件』は10位であった。個人的にはもうちょい低くても構わないと思ったが、人気シリーズと言うこともあるし妥当な線であろう。
閲覧者の七割が友人知人で占めているこのブログでわざわざどうしてタイムリーなネタなど振ったのか。そんな世間一般の知らない人がたくさんコメントをくれるブログの真似なんてしたのは何もそういった方々のコメントが欲しいのではなく、米澤穂信氏の本を一冊読んだから、そういった絡みだよという長い前置きがようやく終わります。今回は平成十八年に新潮社より刊行された『ボトルネック』である。
はっきりいって米澤穂信氏の暫定ワースト一位である。
本作は米澤穂信先生の非シリーズものの一冊である。
米澤先生の青春ミステリを描く才能の素晴らしさを二つのシリーズものである古典部シリーズと小市民シリーズで知っていた私としては、この作品はどちらかと言えば安心して手を出した部類に入る。
だが、この安心は大いに間違っていたと言わざるを得ない。結論から言えば、米澤先生はこういうジャンルに手を出すべきではない。そして、高校生が主人公で青春ミステリなどと銘打つあらすじに惑わされて紐解くことは無謀であると未読の方には警鐘を鳴らしておきたいというのが、本書を読み終えた最初の感想である。
大雑把に作品を説明するとこうなる。主人公の嵯峨野リョウは、恋人が命を落とした東尋坊を訪れるところから始まる。彼の家庭は滅茶苦茶になっており、夫婦はそれぞれ浮気をしており、母親は主人公を疎み、兄は母親の庇護を受けながらも薄っぺらい考えで自分探しの旅に出てすぐ事故に遭い、長い植物状態の果てに死ぬ。せっかく東尋坊に来たにも関わらず、兄の訃報を聞き家に戻らねばならぬ主人公。しかし、まぁ色々あって気が付くと家の近くの公園で目を覚ます。訳が分からないながらに自宅へ戻ると、そこには見ず知らずの女がおり、挙句自分はその家の住人であり、しかも主人公など知らないと言う。つまり、主人公は自分が生まれなかった、並行世界に来てしまったのだ……
と、こんな感じである。並行世界を描く作品は数多くあるものの、この作品ほど分かりやすくその目的を描いているものはそう多くない。私は別にSFが好きではないので、正確なことは言えないが、それでもこういった並行世界を描く作品の多くは単純なハッピーエンドの派生に過ぎぬものがほとんどではないだろうか。
例えば、恋人が死んだ主人公がいたとする。ここは本書と同じだが、世間に溢れる並行世界ものの展開から考えれば、どうにかして恋人を死なせないように運命を変えるという作業に奔走するだろう。その結果として、都合よく自分が再び元の世界に戻ると、恋人が死ぬ直前で目を覚まして、「今度こそ、死なせはしない……!」とか言って終わりとか。まぁもっと簡単に言えば映画の『バック・トゥー・ザ・フューチャー』みたいな感じである。すったもんだの大騒ぎをしたけど、現実世界にも進展があって良かったねというオチだ。こう書くと私がかの名作をバッシングしているように見えるので訂正しておくと、私はあの映画は大好きである。
しかし、往々にして並行世界ものとはこういう作品展開であるのだ。これはもう水戸黄門が絶対に勝つのと同じである。そう思ってきている人間は多いだろう。そんな既成概念を持つ多くの読者に対して、まずこの作品は宣戦布告をしてくる。まず、全然盛り上がらないのだ。主人公の性格が、この思春期特有の冷めた感情を持っているように描かれているのだからある程度は仕方ないのだが、それでも彼の冷めっぷりはなかなかのものだ。そして並行世界で主人公が生まれてこなかったが故に存在する姉にあたる嵯峨野サキの理解も早い。まぁ、並行世界から来たと言っても信じてもらえずにひと悶着というお決まりの展開に飽きていない読者などいないだろうから、ここは別に差っ引いても問題ないといえばないのだが、彼女が主人公を見極めるために出した質問がまた意味不明である。自宅に停まっているスクーターがただのスクーターではないと言い、このスクーターがどうタダモノではないかを答えろというものだ。解答は作品の中で明かされるが、そんなものの考え方で良いのかと私は思ったものだ。
こうしてまるで盛り上がらないままに一応はお互いの世界を理解する二人だが、さてそれでは主人公はこれからどうしていこうとなった時の作品における展開部分、起承転結でいうところの承がまた奥行きがないのである。現実的な規制が主人公をまず縛りつける。金がないのでネットカフェに滞在するとか、サキもあんまり主人公を信用していないから家には泊めてあげないとか、どう考えても先細りしていきそうな展開の中、主人公はとりあえず自分が元の世界で最後にいた東尋坊を目指す訳だが、この道中で常に繰り返される金がないという現実的な制約は作品の色彩を欠くとしか言いようがない。どうして序章で適当に大金を掴ませておかなかったのだろうか。理由は何でも良いんだ。主人公がそもそも恋人である諏訪ノゾミを失ってから二年経って東尋坊に訪れているのだから、その間にバイトに明け暮れていたとかでも良いし、宝くじに当たったとかでも何でも良いのだ。現実的に作品を展開していく以上、金が必要なのだが、作者はストイックなのか、主人公のお財布事情まで現実的なのだ。このせいで主人公は作品中、絶えず具合が悪い。まぁこういう不調な感じがより一層彼の絶望感を煽ると言えばそれまでだが……
とにかく、主人公は金もないのに宿無しという状況で、余裕もないのですぐさま現実世界に帰る方法を探し始める。ここにこの作品の視野の狭さを感じると言う話をするために随分と脱線してしまった。主人公がこの並行世界の情報を手に入れる手段は大体がサキの口から聞かされる話なのだ。それを読者は更に又聞きするのだから、どうにも並行世界の印象と言うものは薄い。こうした未開の地に辿り着いた人間はまずベースキャンプを求める。これは別に並行世界に限ったことではなく、例えば無人島に流れ着いたらまず食料の確保。そして住む所を確保。そしてようやく冒険するもんです。しかし、この主人公はこのままだとバイトしなきゃならんなという危機感はあるものの、並行世界に長いこと腰を据える気はあまりなく、衣食住ほったらかしで動いていきます。つまり、金がないことが物語のタイムリミットであり原動力なのです。確かに主人公は東尋坊の崖の上から海を見下ろしていたら、ノゾミの声を聞いて意識を失いこの並行世界に来たので、その原因究明に対するアプローチは非常に曖昧です。これが例えば竜巻に飲み込まれたとか、伝説の木に触ったらそうなったとかだったら、まずはその原因を調査したりというところから始められるのですが、金がないという現実的なタイムリミットに加えて曖昧な並行世界への訪問方法のせいで、物語の方向性までもが非常に曖昧です。しかも主人公は別に元の世界に積極的に戻りたい訳でもないのですから、この盛り上がらなさはいよいよ深刻なものとなってきます。
そんなこんなで話が進んでいき、現実世界では死んだはずの恋人が生きていたりと色々あって主人公は最悪の状況で現実世界へと送り戻されるのですが、結局のところこの作品は青春ミステリなのではなく、かといって並行世界を扱っているけどSFでもなく、ホラー小説なのです。どこら辺がホラーかと言えば、それは最後に主人公自身が語ることですが、この並行世界へ飛ばされた原因は現実世界の諏訪ノゾミにあるようです。そして、彼は飛ばされた並行世界で、もし自分ではなく嵯峨野サキが生まれていれば、誰もが不幸にならず済んだと言う可能性を示唆され、それを実感した上で「もう、生きたくない」と初めて思った時に現実世界へと帰されるのだ。
主人公はこのことを『控えめに言っても、呪いだ。』と述べているが、正しくそうである。この物語は主人公が恋していたと思っていた少女が彼にかけた呪いの話なのである。故にこの作品はホラー小説なのだ。加えて、誰もが一度は願う「あの頃に戻ってやり直したい」という願望を、自分以外の分身が成し遂げた世界という、最も残酷な形で提示することで青春ものとしての体裁を保っているのだ。
とは言え、この作品は全体的に完成度が低いという印象が否めない。確かに前述したように作品の構成なんかは面白いとは思う。だが、言いたいことが全面に出過ぎていて、ストーリーや登場人物の底が浅いのだ。登場人物でいえば、嵯峨野サキである。頭の回転が早く、行動力もある女性として描きたかったのだろうが、全てが良い方向に進んでいる並行世界の要であるので、ヒロイズムが強すぎる。とにかく主人公が悔やんでいることに関しては満点でクリアしているこのヒロインは、あまり出来過ぎていると言わざるを得ない。そしてそれは、並行世界そのものにも言える事で、主人公の現実世界との対比が分かり易いことは間違いないのだが、何事も良い方向に進み過ぎている。主人公の取った行動の全てが漏れなく最悪の選択で、何一つとして良い結果を生まなかったというのは、あまりに対比がオーバーな気がしてならない。
そしてストーリーである。並行世界を扱う作品としては盛り上がりに欠けるという点はすでに触れたが、それに加えて情報の少なさが問題である。例えば主人公と諏訪ノゾミとの過去である。確かに断片的には出てくるものの、本当に主要な部分のみを挟み込んだだけなので、諏訪ノゾミが主人公にこんな呪いをかけたというストーリーの根幹に関わる部分の説得力をまるで感じない。そもそもどうして諏訪ノゾミがこんな力を行使出来るのかに関して、まるで納得出来る描写がないのだ。幽霊の怨念が成せる業だと切り捨てればそれまでかもしれないが、だとすればそうした怨念を抱くに至る経緯がもっと丁寧に記述されるべきではないのか。
そして青春小説としての部分であるが、これにも然して魅力は感じられない。言いたいことが全面に出すぎていると前述したが、これは教訓めいている、もっと言えば説教臭いと受け取ってもらっても構わない。個人的には芥川龍之介の『蜘蛛の糸』くらい説教臭く感じたのである。
しかしそれは、私のように前途の無いおっさんではなく、これからを生きる青少年に向けられた作品であるとすれば説教のスパイスが効き過ぎていても良いのかもしれないが、それにしてもこれを青春小説と呼ぶにはもう一つ足りないのだ。例えば、先に例を挙げた『蜘蛛の糸』を使って考える。この作品単体で言えば、訓話に過ぎない。だが仮に、『蜘蛛の糸』を作中で読み、自らの傲慢さを省みて、新たなる活路を見出す少年の話を書いたとする。そうすれば、これはギリギリ青春小説と呼べるのではないだろうか。細かく注文をつければ、『蜘蛛の糸』という訓話の内容をストーリーの展開で消化して欲しいとは思うが、最低限でも、教訓を学び挫折からの何らかの成長なり進展を見せて欲しいというのが私の青春小説に対する要望である。だが、本書はただ単純に長い訓話のように思えてならない。作品の最後にも主人公は何を見出すでもなく終わっている。結局、嵯峨野リョウという主人公は読者に自らの破綻した反省を晒して教訓を残したのみであり、そこには小説としての物語が欠けているのだ。このように本書は青春ミステリーではなく訓話ホラーに終始したという感が否めない作品である。
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